グリーン水素と燃料電池— 半世紀の研究生活を振り返って

1. はじめに

 私が大学に入学したのは 1964 年,前の東京オリンピック開催の年で,アベベのマラソンが見たくて,授業を抜け出し甲州街道まで出かけた.アベベが如何に素晴らしいランナーであるかをこの目で確認出来た感激は忘れられない.

 工学部工業化学科に進学,4年になり卒業論文は向坊隆先生の研究室に入り,指導は笛木和雄先生に直接受けた.卒業研究テーマは金属の高温硫化反応の研究であり,具体的な金属,反応条件は自分で勉強して決めなさいとのことであった.先輩のご協力を得て,チタンの硫黄蒸気による高温腐食に取組んだが,このあたりが私の研究の始まりと考えている.

2. 大学院時代

 1968 年 3 月に卒業式のため大学に出かけたが,突然卒業式が中止となった.東大闘争が医学部の問題から全学の問題に変わった時である.その後,工学部では一部を 除き,大学院の講義は行われず,しばらくの間,工学部 5 号館(応用化学系の建物)は,院生を中心に薬品類を過激派から守るため逆封鎖をした.その中で研究室学生だけが集まって輪講を行った.熱力学,材料科学,固体物理といったところが主体であった.ロシア語,量子力学もトライしたが初歩の段階を抜けることは出来なかった.我流の勉強会であったが,研究に当たっての基礎が出来たと思っている.

 1972 年頃に米国のBockris がまとめた本に,米国を横断して電力輸送をするのに電線が良いか,水素パイプラインが良いか比較検討した論文が出され,2千キロを超えた長距離は水素パイプラインが良いとの結論を得ていた1.1972 年にはローマクラブからのレポート“Limit to Growth”(日本語版「成長の限界」)が発行され,いずれエネルギーをはじめとする資源枯渇が人類の大きな課題となることが予言された2.

 我国では水俣病,四日市喘息といった環境問題が深刻化し,エネルギー資源問題が顕在化していた.これらを解決する手段としてソフトサイエンスの必要性が叫ばれ,シンクタンクの設立が始まった.向坊先生を中心1971年に設立された財団法人政策科学研究所には,その前年の準備段階からお手伝いをさせてもらった.無公害コンビナートは可能か,石油価格が 1 セント上がると日本は どうなる,製品の安全性とは,といった議論に加えさせてもらった.Table 1 には日本の再生可能エネルギーの賦存量を示すが,これは私がエネルギー問題を議論する種の一つとして計算したものである3.

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Author: castage

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